ドラマやCMのロケにも使われるぐらい町並みが美しく下町と都会を同時に味わえる魅力のある幕張をご紹介!
幕張について
幕張は大まかに分けて総武線沿線で花見川区側の地域と、京葉線沿線の美浜区側の地域に二分される。この内、内陸側である花見川区側の幕張が元々の幕張であり、美浜区側の幕張は1960年代以降の埋め立て事業によって造成された地域である。
これらの地域の地誌は、凡そ以下の通りである。習志野市から千葉市西部にかけての東京湾沿いの地域は下総台地が海岸沿いまで迫って海食崖を形成し、江戸時代には台地を刻む小河川の河谷ごとに村落が形成されていた。こうした形態の村落を西から挙げていくと、現在の習志野市の区域には谷津(やつ)村、久々田(くぐた)村(菊田川)、鷺沼(さぎぬま)村、千葉市に入って馬加(まくわり)村(浜田川)、検見川(けみがわ)村(花見川)、稲毛(いなげ)村、黒砂(くろすな)村である。
この区域の西側は船橋市中心街を形成する海老川河口低地帯の、東側は千葉市中心街を形成する都川河口低地帯の、それぞれ中規模の沖積平野によって区切られる。千葉市花見川区の幕張はこの浜田川河谷を中心とした馬加村が、浜田川上流の武石村、天戸村、長作村、実籾村と合併して成立した幕張村に由来する。この幕張村は浜田川河谷の低地で水田を、周辺の台地で畑作を営んでいたが、特に浜田川と東側の花見川の両河川の河口の間は砂丘が広がり、かつてはここが良質の人参産地となっており、「幕張人参」のブランドで知られた。今では浜田川西岸の台地上にも、東岸の砂丘上にも、畑はわずかしか残っていないが、土の色を見ると西岸の幕張本郷駅近くの畑は関東ローム層特有の赤褐色を、東岸の幕張駅近くの畑は白っぽい砂の色をしており、両者の畑の性格が異なることを知ることができる。
1960年代から1970年代にかけて千葉県東京湾沿いの埋め立てが進んだが、上記の浜田川を中心に、西は千葉市と習志野市との境界から、東は花見川に至る埋立地の区画が、「幕張埋立地」と名付けられた。ここに千葉市美浜区の幕張新都心が立地している。
上にも述べたように、幕張本郷駅は浜田川河谷の低地のすぐ西に迫る台地の上に、幕張駅は東側の砂丘の上に位置している。京成幕張駅の南側の砂丘の頂上にはかつて、青木昆陽を祭る昆陽神社があり地元民からは芋神様(いもがみさま)と呼ばれて親しまれたが、現在は総武線と京成線の重なる「開かずの踏み切り」による交通難の解消のための駅前の再開発で、移転している。
元々は下総国千葉郡の西側一体を指して幕張(もしくは馬加)と言ったようである。千葉市のお隣の習志野市が現在の形になったのは1954年であるが、この時現在の八千代市や船橋市の「習志野」を名乗る周辺および当時の幕張町で合併を検討していた。この時の合併計画は「幕張地域合併」という言葉で呼ばれた。このことからも元々この地域一体をさした使われ方をされていた事が良く分かる。現在では旧千葉郡の西部を指して津田沼、習志野と言う言葉を使うが両者とも明治時代の社会変動期に起源をもつ地名である。
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幕張について
幕張の歴史
幕張新都心
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